三条市『本寺小路』の歴史

東別院と本寺小路

幕末の人物で、新撰組の仕掛け人として有名な「清河八郎」は、著書 『西遊草』の中で次のように記している。
「三条御坊と称し音にきこ えたる本願寺に行く」「山門は御坊小路といひて旅舎連綿と立ち並び、 娼楼など新潟にも劣らぬ程の繁華なり」
新潟にも劣らない繁華の町が 出現したのは東別院の繁栄と歓楽街としての本寺小路の発展が相互に 補完しあい車の両輪の関係となって発展したためであろう。

東別院の建設


元禄16年(1703)完成。この時、本寺小路も作られた。
文政11年(1828)三条地震で倒壊。
天保13年(1842)再建され
明治13年(1880)糸屋火事で全焼。
現在の本堂は明治41年(1908)完成。

二分された三条


三条城廃城後目まぐるしく領主が変わるが、
享保2年(1717)に三条町は村上藩領と高崎藩領に分割される。
以前の地は旧三条町と旧裏館村、旧一ノ木戸村を含む地域を三条と称していたようである。
三条町は村上藩に。
裏館村、一ノ木戸村は高崎藩に分けられてしまった。
本寺小路はまさに分割された箇所に当たった特殊な土地であった。
村上領の三条側は青玉小路の南側、三ツ星小路の両側。それより北側は高崎藩領に属する。
本寺小路一帯に田町という町名があったことをご存知の方もおられると思うが、まさにこの田町が裏館村にあたる。

宿場三条町


東別院が完成より以前にすでに本寺小路界隈に木賃宿等の旅宿が存在したと思われる。
(木賃宿=食料は旅人持ちで焚き木を提供する宿)
寛政2年(1790)の資料で旅籠屋が登場している。
(旅籠屋=食事の給仕のほか、夜の接待をする飯盛り女を置く宿)
旅籠屋の資料があるとて、本寺小路の繁栄と即断は出来ないが東別院完成後70年~80年経過し、三条町本寺小路が繁栄の兆しを見せて来たと窺わせる。

本寺小路の繁栄


寛政2年(1790)には三軒であった旅籠屋は、20年後文化7年(1810)には6倍の18軒に増えた。
上町分本寺小路5軒、大町分本寺小路(新小路を含む。新小路はこの頃出来た?)13軒である。
30年後の天保11年漸く2軒増え20軒。この年に裏館村、一ノ木戸村には21軒あった。
その後、慶応4年(1868)に3軒増え23軒で明治期を迎える。三条町の飛躍的発展である。
本寺小路といえば、旅籠屋だけではなく、色々な商売を営む店も多数あった。
文政3年(1820)に裏館宝塔院の住職が書いた『三條往来』には「本寺小路両側旅籠にて、豆腐、生麩、饂飩、料理、茶屋、貸し座敷これあり、芸者、踊り子、舞妓、遊女これあり。」とあり一大歓楽街であったことが窺える。
《東別院の創建と本寺小路の旅籠屋のついて 羽賀吉昭氏》から引用させていただきました。

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