天地人 三条編改②

【戦国時代】
永禄二年(1559)「上杉謙信」〈長尾景虎〉の上洛に際し
「山吉孫次郎豊守」が「謙信」より太刀を献じている。
「豊守」は「謙信」の配下で奉者として、活躍し
永禄九年(1566)~十年(1567)にかけて、
甲斐の「武田氏」駿河の「今川氏」会津の「芦名氏」や関東の諸将などとの外交に従事した。
永禄十二年(1569)~十三年(1570)には小田原の「北条氏」との和睦に奔走。
天正三年(1575)には「山吉氏」は377名という「上杉氏」の家中で最大の軍役数を負っている。
天正五年(1577)九月に「豊守」が死去すると嗣子がなかった為
弟の「山吉景長」が家督を嗣いだが、領地を半減され「木場城」に移され
三条城には「神余親綱」が城主として入った。
【御館の乱】
天正六年(1578)三月十三日「上杉謙信」の急死により
「景勝」と「景虎」の間で、家督相続の内紛が勃発した。
「景勝」「直江兼続」は春日山城を本拠とし、「景虎」は御館城に立てこもった。
戦いは御館城の攻防であった事から、後に「御館の乱」と云われている。
「三条城主」である「神余親綱」は当初「景勝」に付く態度を見せたが、同年5月には
「栃尾城主」の「本庄秀綱」と「景虎」に与し「景勝」「兼続」に対抗した。
三条周辺では「景虎」側が有勢だったが、頚城、魚沼では「景勝」の勢力が強く
天正七年(1579)三月十七日「御館城」は落城する。
同年三月二十四日鮫ヶ尾城に逃れるが、城将「堀江宗親」の離反により「景虎」は自刃した。

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【景勝・兼続VS三条城】
「景虎」死後も「神余親綱」は抵抗を続ける。
天正八年(1580)四月には、「景勝」自身が出馬し
「三条城」「栃尾城」を攻めたが、落城出来ず引き返している。
この時指揮を執ったのは「兼続」だったのかもしれない。
その後「神余親綱」は「景勝」に和睦を申し入れてたが、成立せず。
天正八年(1580)六月「木場城」将の「山吉景長」が
三条城内の旧臣に呼びかけ内応を誘い、三条城は落城し
「神余親綱」は自刃することとなった。
「景勝」は三条城を応急普及し「甘粕長重」を城主に据える。
天正九年(1581)「新発田重家の乱」が勃発するが、
この時「上杉景勝」の中継地点として出馬の都度、度々三条城に立ち寄っている。
慶長三年(1598)「景勝」の会津移封後は「堀直清」が三条城城主となるが、
慶長五年(1600)「関が原」の役に関連して上杉の旧臣の一揆の攻囲にあい苦戦した。
「堀直清」が改易となると三条城は、一旦廃城となるのである。

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