端午の節句②六角凧

5月5日Goldenウイーク最終日
子供の日 端午の節句 ということで
三条六角巻き凧の話しです

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三条凧ばやしの中で
るんるん三条の名物たこ揚げ囃子は~
元禄五年の男の節句に~
陣屋侍のトントンたちが~
あげるイカ見て、鍛冶屋の小僧もまけてなるかと、ボロイカあげりゃ~・・・・
お囃子では元禄5年と歌ってますが本当はどうなんでしょう?
疑問のあるところです(’;’)
ある文献によると
慶安2年(1649年)村上藩の陣屋が三条に、設置されたとき、
陣屋の子供達が揚げている凧を見て
鍛冶屋の小僧たちが遠くから、姿を見せずに、
高く揚げた凧で糸を操り挑戦して、空中で相手の凧糸を切り
凧をたたして(飛ばして)日ごろのうっぷんを晴らしたのが、
ハジマリであるとされています
この六角凧の特徴的な物として
中骨をはずして「クルクル」と巻いてしまえます。

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三条イカ合戦
6月5日 前夜祭(一ノ木戸商店街~中央公民館)
6日、7日 三条凧合戦(三条・燕総合グランド)
いい天気でいい風が吹くと良いですね(ハ。・∀・*)
三条警察が飲酒運転撲滅キャンペーンで
こんなものも作ってましたわーい(嬉しい顔)

飲酒運転はイカん.jpg
さくらも店頭ディスプレーに30枚ドのイカ展示中ですぴかぴか(新しい)


「イカ」と「たこ」の話
凧の発祥
・中国で紙が発明されてから。
・日本への伝来は、931~938年。)
・紙老鴟(シロウシ)、鳶、紙鳶(シエン)と呼ばれていた。
・平安時代(1000年)宮中で揚げられていたよう。室町時代には、イカノボリ又は、紙鳶(イカ。尻尾が付いていてスルメに似ているため)と呼ばれ、狼煙として修練していた。
1643年寛永19年頃、タカツクバと呼ばれていたが、江戸でタコと呼んでいた記録がある。
・「凧」の字は、「鳳」と「布」の合成で江戸町民の発明。参勤交代により全国に広まる。
タコをなぜイカというか。
タコには骨は無いが、イカには有る。という珍答もあるが、本当はタコの前はイカ(イカノボリ)だったのです。
 中国から伝来して以来、イカと呼ばれていたのが、江戸時代にイカ揚げに関係した喧嘩が絶えなくなり、徳川実記(1675年)によると江戸幕府が「イカ揚げ禁止令」を出したそうです。(1655明暦元年1月12日)
 ところが洒落もの江戸の人々はイカではなく「タコ」と言って揚げ続けたそうです。
 幕府もこれではイカん、と「タコ揚げ禁止令」も翌年3月に発布したのだそうです。
 江戸末期、振袖火事があり、9月には道幅を広く町づくりをしたことで、凧揚げが一斉に広まった。
 次第に、江戸では凧をタコと呼ぶことが各地に伝わり、イカと呼ぶのは流行に乗り遅れた「田舎者」と言うことになりました。
 今では、新潟県と関西地方だけでしかイカと呼ばれていないようです。
三条凧(紙鳶(イカ))合戦の由来
「イカ合戦」の起こりは江戸時代の慶安2年(1649年)、村上藩の陣屋が三条に設置されたときに遡ります。当時、町人の子供達が陣屋の子供達に軽んじられていた悔しさから、陣屋の子供達が揚げている凧をみて、鍛冶屋の小僧たちが遠くから姿を見せずに高く揚げた凧で糸を操り挑戦して、空中で相手の凧糸を切り、凧をたたして(飛ばして)日頃のうっぷんを晴らしたのが始まりであるとされています。
この子供達の争いが、大人同士のイカ合戦となり、一年に一回、端午の節句に庶民が公然と武士と争うことが出来ました。当初は小さなタコを使った個人戦が主流でしたが、次第に凧も大きくなって、明治に入ってからは町内が結束し凧組を作って争うようになり、ついには全市をあげての大凧合戦に発展しました。
そして現在この三条の六角凧は「SANJYO ROKKAKU」と日本語でその名が呼ばれて全世界に知れわたっています。また、三条市は世界の六角凧の発祥の地としても有名になりました。
合戦で使うイカは六角凧畳二畳半の大きさの30枚ド、畳三畳半の大きさの50枚ドに戦国武将など、さまざま絵柄が迫力いっぱいに描いてあります。

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